
こんにちは!マズヤッテです
駅のロータリーでバスを待っている時に見た塾の看板の多さ。学校も塾もある日本…
学ぶ場所が多いわりには、なぜ「学ぶ楽しさ」「学び方」は教えないのかな?とふと思った。
「ここ試験に出るよ!」っ教えてくれるより、「学ぶ学び」として教えてくれるほうが一生役に立ちそうだと思うんだけど。
塾の宣伝といえば 「◯名△△高校合格!」と実績をデカデカとアピールしているし、学びの先は受験のためにあるようだし、本屋にいけば、学校そのものが不要なくらい参考書が売られている。
何なのさ?学ぶ先はどこに向かってあるものなの?「学校」でうまくいけば学び成功って事を植え付けたいわけ?
周りの親や先生のリアクション、そうでしょ?
【リアクション】
良い成績なら→👍 悪い成績なら→👎
実は、これ私が中学時代に感じたことなんです。
結局付属の高校に進学せずアメリカ留学した!わけです😂 だって、ちっとも面白くないじゃないですか。



【余談】当時中学の担任にはバカにされました。
特に覚えている言葉「ざまーみろという結果になる」と言ったことばに
絶対いたくない理由にもなれましたけどね😂
大人たちが甘い蜜でコントロールしたところでそれって子供たちには「学び」にならない。むしろ「毒」だと思う。
だってそうでしょ? 例えば、発展途上国に大量に食料を送ってあげることができる。でも、そこで終わりにしたら、また食料不足になったら供給されるのを待つだけになってしまう。(受動的になってる状態)でも、自分達で農業を学ぶ・食物を育てる方を学ぶことで自給自足できる。(主体的になっている状態)


しかし、帰国して気づいたのは、「会社」の環境でさえ似た傾向があるなと思った。
きっと、教える側になった時、教えられてきたように教えることになる。それを繰り返すことになってしまっているのでは私は思った。また、「しっかりやりなさい」「ちゃんと勉強しなさい」というフレーズを声がけすることが教育指導になっているような…。
そこで気になったのか、行動心理学でもよく出てくるオペラント条件付けによる教育ってどうなのだろうか?って疑問にいきわたった。📝



オペラント条件づけの有名でこんなのがあるの↓↓
ボタンを押すと餌がもらえるっていう仕掛けの箱の中にネズミをいれた実験あるわね。
🐭「!!!」ボタンを押したら餌がもらえたぞっ💡 と学ぶと、餌(報酬)目的にボタンを押すようになるってやつ♪
教育の場面でよくあるのは、成績でAとったら(テストで90点以上取ったら)ご褒美に○○あげるね♪としておくと、
報酬のほしさに子供は必死に勉強するってやつ。
でも、大人がコントロールしてしまっていいのだろうか? と思うんです。
そもそも学ぶことは一生続く事なのに、こうした条件付になれてしまうと、大人になった時「何も報酬ないなら学ぶつもりない」っていう状態に導いていることにならないかしら?と思うのですが、みなさんはどう思います?
楽しさを感じられる場所に学ぶものあり


全員が学ぶことが楽しめないわけではない。
個々にやりがいを見つけられたら最高だと思う! 映画が好き、料理が好き、写真が好き、
その「好き」からちょっとづつ深堀りして、誰かに情熱を伝えられるくらい学ぶところから学ぶから始めてみてはどうかしら?
学校では、勉強って面白く感じない人が多いんじゃないかしら? 自主的というより強制的にあるルール
学校で良い成績、活躍をする→👍(プラスの報酬)→正しい行いを維持する
悪い成績、活躍しない→👎(マイナスの報酬)→行いを見直しするよう努める



なんというか、「ExcelでいうIf関数」っぽいんです。
△になったら、□と返すからね!という感じで。
こうした期待する行動をコントロールする役割のオペラント条件づけ(「飴と鞭」とも言われる方法)はあらゆる場面で使われているけど、コントロール(外的要因に頼る)の良くない点もある。
- 周りからのリアクションに偏ってしまう
- 良いとわかっていても積極的に行動にうつれるわけじゃない
【サンプル】
大人の場面で言えば「運動したほうが良い!」のは十分承知。
なかなか動く気持ちになれない、もしくは続けられない自分に対して嫌になっているという場面
結局の所「学ぶことも、運動することにしろ、大事なのはわかった、あなたの場合はどんな部分に心動かされてやったの?」って部分を共有するのって大事じゃないでしょうか。
勉強していい成績取れば、いい学校に入って、いい会社に入れる。 って本当か?って普通に思いましたけどね。
それに、いい学校、いい会社の根拠ってなんだろうか…
いい学校、いい会社が幸せとも限らないじゃん…って人もいるわけですし…
学ぶ楽しさの欠如は 自己肯定感にも影響するのでは
先程のオペラント条件づけによって行動をコントロールした場合、その条件というものが存在しなくなった場合どうするの?ってことだと思いません?
学生を終え社会人になると褒めてくれたり、認めてくれる先生もしくは親の存在の関わりがなくなってくる。
それまで褒めてくれたりプラスの報酬を得られていたはずなのに急に枯渇したような気持ちになる人もいるようです。


そこで思ったのが、オペラント条件づけによって他人の行動をコントロールすることが支流となってしまってはマズイ気がする。
学校に拘束されている時間から離れゆとりさを与えれば解決のように思える「ゆとり教育」だけど、ゆとりというコントロールの中に開放されただけで、心動かせられる元がなければ急に開放されても、見失うのではな思う。
そうならないためにも、1人でも学ぶ楽しさ、こんなことできるようになる!という価値観や、わからないことを自分で調べる方法、問題に直面したときの解決ロジックなどを学ぶことって大事だと思う。
アメリカの学校でも競争制度があったり、学校のランクっていうのもあり、学ぶことの楽しさよりも学ぶことはストレスと教えていると考える人もいる。 アメリカの場合は、教育の仕方にも多様性があり、学校教育や環境に疑問でホームスクールを選ぶ人も多い。


好奇心が学ぶ楽しさを加速する


アメリカに渡ってまず私が「なんとかしなければ、ならなかった」のが英語💦 だって中学校では英語不得意でしたから
DoesとかDoらへんから、もう英語がわけわからないので向き合わう気もなく、放置。
しかし、アメリカ言ってからは、今までとは異なる学びの楽しさを知れるきっかけになった。
自分の好奇心を探求することで、外側→内側に変わったこと。まさに開放って感じでした。
今の英語聴き取れたっ!→💡(プラスの報酬)→よし、徐々に耳がなれてきたぞ!
会話と通じてDoesとDoわかってくる→💡(プラスの報酬)→よし、中学文法やりなおしてみよう!(必要性感じる)
クラスでAの成績取れた!→💡(プラスの報酬)→感動した!
対応の仕方がわからない→😩(マイナスの報酬)→これを経験とすれば良い!
それまで外にあった👍や👎というものが、直に実感できることが喜びになれた。
関係代名詞だの、接続詞だので正解を得るよりも嬉しかった。
だって、少しづつリアルにわかって自由に生活できることのほうが大きな価値だったから。
他人に設定された価値に向かって「走れ!」と言われても、楽しくないけど、自分の好奇心に向かって走るっていうのは、追求のプロセスをも楽しめるという学びでした。



日本で教育されていたら日本の高等教育で学んでいたことを私は知らないし、正直漢字も非常に弱い。
困っていますか?→いえ全然困ってないです。辞書もあるし😂 グーグル先生もあるし😂 そんなもんです。
まとめ



それではまとめです
- 学ぶ楽しさの価値観が必要
- オペラント条件づけは行動をコントロールする
- 報酬によって目標と目的があいまいになることがある
- 好奇心によって学ぶことの楽しさを実感できる